2019.4.09更新

黒酢のこだわり、壷づくり製法


江戸時代後期から始まった、200年続く伝統の製法で作られる黒酢。 現代では黒い色をした酢のことを黒酢と呼んでいることも多いですが、黒酢の元祖は鹿児島の福山町というところで造られる「壷酢」のことを言います。 鹿児島弁で酢のことを「アマン」と言い、黒酢を造る薩摩焼の壷のことを現地では「アマン壷」と呼んでいます。 アマン壷での黒酢造りは、通常の食酢を造るのと少し違います。 通常の食酢は、でんぷん質の原料(米や果物など)を麹菌を使い糖分に変え、その糖分に酵母菌を加えアルコールにした後、アルコールに酢酸菌が働き食酢が出来上がります。 しかしアマン壷での伝統製法では、アマン壷に「蒸し米・米麹・地下水」を入れて1年以上寝かせるだけ。福山町の特別な地形と気候、そして職人さんの鋭く研ぎ澄まされた技がそれを可能にしているのです。 その証拠に、ある東京の大学がアマン壷を大学に持ち込み、同じように醸造しようとしたところ、同じように製造できなかったそうです。

地域に根付いた伝統の黒酢製法


そうしてできた酢は、琥珀色に輝き、普通の食酢に比べ濃い色をしているため、「黒酢」と呼ばれるようになりました。 そうして造られた黒酢は、今までの食酢に比べ、高品質で美味しかったため評判を呼び、最盛期には福山町に34軒もの醸造所が建てられ、旧薩摩藩の酢の需要を全てまかなっていたそうです。 そんな大盛況ぶりを見せていた黒酢ですが、絶滅の危機にさらされた時期がありました。

黒酢が全国に普及した歴史


大正から昭和にかけて、日本では石油から合成してできる「氷酢酸」を薄めて作られる合成酢が流行り始めました。この合成酢は作るのも簡単で安く売られていたため、手造りの伝統製法の食酢は衰退の一途をたどりました。 それに加え、その後戦争が始まり、壷酢の原料である「米」が不足してしまい、醸造家たちは転業を余儀なくされてしまいました。しかし、そんな逆境の中、黒酢を造り続け、伝統的な壷造り製法を守りました。 その後、有害食品が問題になり騒がれ始めると、伝統的な製法の黒酢の良さが見直され、全国に普及するようになりました。



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